スタッフ紹介 | 自然素材の注文住宅,健康住宅は無添加計画

スタッフ紹介

役員
プランナー
富谷 渉

とみや わたる

富谷 渉

  • 専務取締役/
  • 家造りプランナー
資格 一級建築士 ・ 専攻建築士 統括設計 ・ CASBEE戸建評価員 ・ 被災建築物応急判定士
出身 宮崎県
家族 妻と娘
趣味 スポーツ観戦(サッカー、バレー、バスケ)・建物探訪
特技 サッカー(技術ではなく知識)・空手・大喰い
一言 「いい家」とは作って楽しく、見て楽しく、住んで楽しいものです。その為にも良い仕事をし、皆様と良いお付き合いをさせて頂き、施工中の現場から、楽しい場となる様に勤めております。その家に関わる人全てが笑顔で居られるような家作りに励みます!

マイライフ

1974年7月29日 宮崎県にて誕生

福島県育ちの父と宮崎県育ちの母の間に生まれた私は、生後数ヶ月の時にポットを倒して自分の腕に熱湯を溢してしまい大やけどを被う。
大変な出来事でしたが父方の家では土地柄で「野口英世みたいな立派な子になる!」と都合のいい解釈をしていたそう(笑)
幼少期は、とにかく女の子に間違われるほどに弱々しく…遊びは専ら、おままごとばかり。しかし、根本的には家事全般の作業に興味があった様で、実際今もそれは変わらない。この遊び心なのか探究心なのか???は、後の仕事に活かされる事に…
幼少期に私が住むマンションで設計事務所を営んでいた伯父に誘われ、度々事務所に遊びに行ってはトレシングペーパーを貰い、自分の好きな家を描いていた。褒めてくれる伯父の言葉に高揚し、ひたすらに家の絵を描いていた。

ままごと好きで、家の絵を描く事が好きな大人しい少年だった私。5歳年下の妹や、近所のお友達に泣かされてばかりいた私を見かねた父は、空手・剣道・柔道の道場に連れて行き「どれか好きなのを選べ!」と…迷った末に…空手を選択。道場は伝統文化財にも指定されている近所の神社。冬は寒いが夏はさらりとした黒光りな床の感触が忘れられない。稽古前は神社の掃除。今思えば伝統工法で構築された神社の隅々を見て触れる事が出来たのは貴重な経験であったし、少年期の私の感性を刺激するには充分なものであった。

その後、空手の実力はメキメキと向上。県大会での最高位は3位。全国大会に出場。小学5年生からは空手と平行してサッカーを始める。サッカーが好きだったわけでは無いが、皆がやっていたので始めてしまった。そのつまらなさに愕然としてしまったが親に「辞めたい」の一言が言えず…。結局、社会人まで続けてしまった。嫌々続けたサッカーも小学生の際は弱小チームの補欠だったが、中学入学後の最初の大会で優秀選手に選ばれ、そのまま県の強化選手に選抜される。調子に乗った私はそのままサッカーを続け…中学では九州大会、高校では全国大会出場の実績を残す。一所懸命にやってれば、それなりの成果は出るものだ…と実感。

実は私の進路は、結局嫌々続けたサッカーで常に決定。その為、基本的には受験というものを経験しないまま大学まで進学。入学の為に上京する前日の夕食時に「お前は 苦労をしていないから、必ず社会に出て、大きな壁に当たる時が来る」と提言される。 大学進学後はサッカー・遊びに専念。しかし、教職課程は修了。それなりには勉強していた方かもしれない。一方では度々テレビ番組のオーディション等を受けて出演。ただ単に「目立ちたい」から始まったが、人に評価される事で自分の個性と向き合う機会が多く、自己主張・自己表現を学ぶ良い経験が出来た。

適当にハウスメーカーに就職を決め、適当な気持ちで臨んだ卒業設計で初めて設計の面白さを感じる。担当教授とディスカッションをしながらプランを練り上げていく行程が刺激的で楽しかった。教授や研究室スタッフの皆様のお陰もあり、私の卒業制作は優秀作品に選ばれ、やはり調子に乗りやすい私は「これで食えるかも!?」と思う。
富谷 渉

大学を卒業し、入社したハウスメーカーでは現場監督を経験。しかし、確立されたシステムの下、何もやらなくても稼動する現場・・・楽して結果は出た。しかし、「将来設計をやりたい!」という志があった私は、あまりにも頭を使わない日々に少々危機感を感じ…入社後1ヶ月ほどで辞表提出。設計事務所への転職の意思を伝え、年度末に退社。ちなみに…辞めるにも関わらず、宴会では幹事・司会。社内ではサッカー部を設立するなど、会社を楽しんでいた。(笑)

年度末の〆日が退職日だったので、一人暇だった私は定時に一人で退社。皆様にお声掛けいただきながらエントランスに向かっていると、一人の女性が声を掛けてくれる。日頃は喋る事の無い先輩Kさん。「今日で退職なんだよね?飲みにつれて行ってやるよ!」と・・・それが後の妻(笑)

会社退職後、自信満々で希望していた事務所の門を叩いたが門前払い。その後、順次希望する事務所を訪ねてたが…何れも同じ。その後、無給でいろんな事務所を転々する日々。いよいよまともな生活が出来なくなり、纏まった給料を貰う為、現場を知る為に、RC現場にて墨だし大工として働き始める。 職長として現場を任され、大規模マンション等も担当。現場の流れ、図面の読み方、現場の人間関係等々…良い経験が積めた。

毎月泣き無しのお金を叩いて購入していた「新建築」を読んでいたら…ナント!私の研究室の後輩が権威あるコンペで大賞をとって掲載されていた。インタビュー・写真・作品etc…。「あいつが出来るなら…」と思った私は、再び設計事務所を探し始める。
 
この時はすんなりと事務所が決定。RC打放しの住宅・共同住宅設計に従事。所長には何度も「お前のプランにはストーリー性が無い!」と怒鳴られては、シャロウンのベルリンコンサートホールのプランを題材に’ストーリーの重要性’を教授頂いた。私の今までの建築人生で最も印象的な言葉であり、シーンであり、私の原点そのものである。

25階の高層ビルのデザインを3人のチームで実施。私はエントランスのデザインを任され、嬉しくて時間も忘れて没頭する日々を送っていたのだが、ある日所長からの指示で担当者が変更に…しかも、チーム外のスタッフ。納得が行かなかった私は所長に猛抗議!結局受け入れられず、止まらない私はそのまま荷物を纏めて…退職。

その後、行く宛の無い私は日中アルバイトをしながら、夜に図面の仕事をしていた。知人の建築会社の図面を描きつつ、コンペに応募する為の図面を描く日々。「賞を取って飛躍しよう!」としたのだが…(涙)

日中のアルバイトは多岐に渡り、ガードマン、日雇いの荷物運び、製本、住宅展示場の工作の先生、電気屋さん店員、サッカーショップ店員etc…
様々経験した中でも、私にとってとても有意義だったアルバイトがパソコン教室の店長。開業の段階から携わらせて頂き、スタッフの採用、運営の全てを任せて頂いた。幅広い年齢層の方々のお相手をさせて頂き、難しい事を如何に解り易くシンプルに生徒さんに伝えるか?こういう事を考えながら務めたこの仕事は、今の仕事に充分に活かされていると感じる。

24歳から受験し続けていた一級建築士試験。28歳で迎えた試験も失敗。今の妻とお付き合いを始め妻の自宅に伺った際に、ご両親に「一級に合格したら結婚します!」と宣言したまま4年程が経過してしまい…29歳の受験で合格しなければ30歳時に免許を受け取れない!30歳までには結婚もしたいし…そう考えていた私。人生初受験を甘く見ていた私、父の言葉が沁みた(涙)

29歳の受験前に翌年の結婚式場を予約。「結婚式の計画を進めてしまえば受験失敗出来ないだろう!」という自分への圧力。式場も北海道でしたし、かなりの金額と人が動くので結構な重圧が掛かるも、無事に合格!遅ればせながら、晴れて30歳前に合格し、挙式出来た。結婚後も昼のアルバイト、夜の図面描きを続けていた私ですが、子供を授かった事により、将来の事と併せて、「安定した職場に身を置くことも考えた方が良いのか?」と考え始める。
富谷 渉

現場でも設計でも、大規模な建築ばかりに関わってきた私は、宮脇檀さんの影響で住宅に興味を持ち、木造住宅に興味を持ち始める。丁度その頃に出会った船瀬俊介さん著「あぶない電磁波!―ガン、白血病などを防ぐためには」を読んで電磁波の恐ろしさ、RC住宅の恐ろしさを知り、自然とRCから木造へと興味が移行。そんな最中にお誘い頂いた現在の所属会社である無添加計画(旧:トラストホーム)。私が言うのも失礼だが、入社時の弊社は今以上に何のシステムもマニュアルも無い状態。苦労はしたが、だからこそ短期間で色々な事が吸収出来た…と思い返すことが出来る。

一級建築士としての知識、能力は然るべき所だが、それ以前に’人’としてどうあるべきであるかを求めていたいと考えている。 ’お施主様と設計者’である以前に’人と人’。お施主様とマニュアル的に型に嵌った接し方しか出来ない様では深い繋がりは生み出せない。個性や躍動感の乏しい弊社の中で、それを補う立場は自分であると自負しているので、自分のキャラクター・能力を測りながら日々従事している。
そして大切なのは’心’。技術があっても’心’が無ければ技術は活きない。しかし、’心’があれば技術を補える事もある。それに甘んじる事は良くないが、やはり人は’心’を大切に感じているという事の表れであると思う。

基本的に会社の為に仕事をしていると考えた事は一度もない。あくまで私自身とお施主様の為。’心’で動いていればそれが正直な所であると思う。語弊があるかも知れないが、個々を高めた結果が組織の成果に繋がれば良いと考えている。

今後は、より深くオリジナリティーを出して「生活」全般を考え、家のみならず、家具・雑貨・食器・家電・人・地域etc…について語り合い、考え、創造できる場所を創りたいと考えています。
富谷 渉